石橋七朗コレクション

11月19日に、今日の新聞は衝撃的でしたと投稿させていただきました。”遠軽・白滝の石器類  国宝に”との記事が配信されたことです。

その続報第2弾と言うことで書かせていただくことにさせていただきました。まったくノルディックと関係ないし、熊ちゃんの個人的なことでもあり誠に恐縮です。

実は、熊ちゃんの中学校時代は、田舎の町にもかかわらず、一クラス49名の5クラス、学年245名で担任の先生5名に学年主任先生と6名の先生方で教えてもらいました。

その学年主任の先生が石橋七朗先生でした。地理や歴史の社会を教えていただきましたが、この先生、宮司の息子さんでいわば神職を継ぐべき先生でした。そしてこの先生は考古学者でもあったのです。

熊ちゃんらの学年は、4年に一度同期会を行っておりました。もう10年以上も前のことになりますが、還暦同期会の時にも石橋先生にご案内を差し上げました。残念ながら先生は欠席でした。先生は来られないときは、必ず「志」を送ってくれておりました。還暦同期会の時にも頂戴しました。そこで終わってから、お礼状に名簿を添え、何か記念品をお送りした記憶があります。

その後、先生から熊ちゃんの家電に電話があり、「〇〇君(熊ちゃんのこと)、私は行きたかった。だけどもう足がなく行くことができなかった」「それなら先生言っていただければ、何とでもなったのに残念です」とお話をさせていただき、昔話に花が咲いたところです。そして最後に、「会いたいからぜひ会いに来てくれ」と言うのです。それも全部で3回にわたって電話を頂戴しました。

これはどうしたもんか、同級生の仲間に話しましたが、だれも乗ってこないものですから、しょうがない俺が犠牲になって行ってくるか。となり、一人でその年の10月10日に札幌市の北郷にあるお自宅にお邪魔しました。

その時は、すでに45年以上も前のこと。タイムスリップして話に没頭しました。そのうちに、矢じりや石器の話になり、考古学に取り組んできた話になりました。考古学も2つに大別され、歴史考古学と地質考古学に分かれるが、私は歴史考古学だとおっしゃっていました。夏休みになるとリュックを背負って、女房にどこへ行くと伝えることもなく出掛け、夏休みの終わりになったら帰宅したもので、女房には迷惑をかけた。女房に迷惑をかけた話では、結婚式を挙げてすぐ出征し、シベリアに長い間抑留され本当に迷惑をかけたとも話しておられた。

日高山脈を歩いて越えて、十勝方面に行ったことは何度も。いろいろな化石を探した。そのうちに、ソファーの前のテーブルの下の箱を見てくれと言うことで開けてみる矢じりや石器がたくさん入っておりました。そして、サイドボードの扉を開いたら、やや大きめのツボが飾ってあり、これは関東ローム層から発掘したもの(されたもの)で日本広しといえども、10個は存在しないだろうと、大変貴重なものだと強調されておりました(その時、先生が発掘されたものかコレクションで集めたものかを聞くのを忘れてしまいました)。

そして、こればかりではない、車庫の中にもいっぱいあるし、2階のもたくさんある。

「岩見沢市長が会いたいと言いて来ている。岩見沢市には渡さん」とおっしゃており、どうしてそうなのかは分かりませんが。

息子は、札幌にいるが全く興味がない。「私が死ねば、どこかの砂利道にでも捨てられるだろう」ともおしゃっておりました。

さて、この話、どうして国宝につながるかと言いますと、栗沢町でも国道234号線沿いでたくさんの石器や矢じりが発見されました。由良遺跡、加茂川遺跡そして最上や栗丘からもたくさん出土された経過があります。熊ちゃんは国宝に指定される黒曜石は栗沢から出土したものも、もしかしたら白滝村から来ているのではなかと思いました。新聞報道によりますと、遠くはは樺太、道内はもちろんのこと、東北地方まで広がっているということですから。

そこで、熊ちゃんは岩見沢市郷土資料館に「石橋七郎コレクション」が展示されていることを思い出し、もしかすると栗沢と白滝が結びついているのではないかと思い、先般再び行ってきました。もちろん現在もショウケースに入れて展示がされておりました。

恐らくですが、関係あると思いました。石橋先生のことを、「元白滝団体研究会会員、元十勝団体研究会会員」と書かれておりました。そのことだけでは確定できませんが、黒曜石が取れるのは赤井川村と十勝の河原(十勝川か音更川か)位ものですから、確率はかなり高いと思いました。

由良遺跡、加茂川遺跡から出土したものもたくさん展示されております。そのほかにも岩見沢地区での冷水・東山遺跡などたくさんのものが展示されております。是非、一度ご覧になってはいかがでしょうか。

11月20日のサンデーノルディックウォーキングで、国宝の記事の話になった時、栗沢はかつて石狩平野が海であった時の波打つ際で国道234号線沿いの丘陵地帯に先住民族の集落が作られていたものと思われ、その遺跡から土器や石器が発掘されたものと思われるとの話に興味深く聞いてくれた方もいらっしゃいました。

今から約1万年前の北海道は、石狩湾から西に江別市を経て岩見沢市、岩見沢市から苫小牧湾に向かって海となっており北海道は分断されていました。そういう歴史があり、誠に興味深いものがあります。

さて、石橋先生は、数年前に97歳でお亡くなりになりました。

石橋先生は毛筆も達筆。栗沢文センターの2階に上がる階段に「手稲山展望」の油絵が掲げられておりました(号数は分かりませんが、かなり大きな絵です)。今はどこへ行ったのでしょうか?栗沢市民センターには掲げられておりません。授業中に「額が高いので自分で作っている」と、おっしゃっていたのを思い出します。

また、所有していた石器や土器など収集したしたものはどうなったのでしょうか。気になります。

(なお、写真につきましては、撮ってもよろしいですかと尋ねる前に、2回も写真写しても良いですからとおっしゃっていただきました)

 

 

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